大飢餓時代「苦難の行軍」を迎えて

石丸:なるほど…少し時間が飛びますけれども、ご結婚されて子供さんも出来て、次は90年代の話をちょっと聞きたいんですけれども、皆さんご存知のように90年代、金日成氏が94年7月に死んで、それまでの経済悪化が一気に社会に噴出して、末端まで大パニックになります。そして多くの人が飢餓で亡くなる事態が起こります。それを「苦難の行軍」と北朝鮮では言っていますけれど、その時期まで、日本からの、親戚からの送金、ご兄弟からの送金はあったんですか?

2018年7月で開催された証言集会の様子。撮影 合田創

 

朴:ええ、ずっとありました。日本に暮らしている兄が、親兄弟のために、毎年お金送ってくれました。

石丸:もともと、ご両親と8人が帰られたんですね。

朴:ええ。

石丸:そして、日本に2人残られた。そのお2人が、ずっと送金してくださったんですね。大変ですねそれはそれで。

朴:ええ。いくらにもならないお金だったんですけど、それを8人兄弟がみな分けて、もう、いくらもないんですよね。

石丸:でも、あるとないとじゃ大違いでしょ。

朴:もう、一年間、だから毎年送ってきたんですけど、送ってくる前に、節約して生活しなくちゃいけないから、いい暮らしはできませんでしたけれど、もともと北朝鮮で生まれた人たちよりも、少しは足しになりました。

石丸:北朝鮮の経済が一番良かったのは、いつ頃ですか?

朴:一番良かったのなんてわかりません。もうずっと苦しかった。いい時はと聞かれても、いつ良かったのかわかりません。

石丸:でも、62年に帰国して、そして戦後復興、朝鮮戦争からの復興もあって、社会主義友好国からの支援もあって、それなりに、韓国よりも先に復興を果たしたと言われてますよね。その中で、配給の質が良くなっていったとか、そういうことは?

朴:配給の質が良くなったことは全然覚えがないし、90年代じゃなくて80年代に、息子2人と娘1人がいたんですけど、息子が〇年度か、中国に脱北していったんですよ。

石丸:息子さんが〇年度に中国に…。

朴:はい。中国に行く目的は日本に行く目的だったんですけど、後でそれ分かったんです。中国に逃げて行って、中国の日本大使館の前で捕まったみたいです。捕まって、また北朝鮮に送り返されたんですね。それは安全部から連絡がありました。息子が、中国で大使館の前で捕まったって。それも、死んだのか、今でも生きているのか、全然わかりません。

石丸:息子さんも中国から北朝鮮に送還された。その後どうなったかはわからないと。

朴:わかりません。一度捕まっていったら、もうわからないんです。

 

帰国者の中でも多数の餓死者が

石丸:また少し生活の話になりますが、北朝鮮の経済がガクンと悪くなるのは90年代に入ってからと言われてますけれど、お住まいになられていた場所で、例えば飢えて死ぬ人が出るようなことは?

朴:ええ。実際に目撃しました。

石丸:何年頃から?

朴:94、5年かな。95、6、7年、その頃は、冬に朝外に出たら、氷詰めした人がいたんです。もう何人も見ました。ひもじくて、どこかで寝てから、そのまま凍って死んでしまうんです。そういう人もいました。

石丸:それは配給が完全にもう崩壊してしまって、食べ物が得られなくなるような時代になってからということですか?

朴:ええ、そうです。そして、韓国からお米の援助をもらったみたいですね。だけど、その配給所に米が着くんです。韓国から米がきたらしい、明日は配給がくるだろう、コソコソみんな言っていました。だけど、それをまた夜に、軍隊の自動車が来て、その配給所で配られると言っていたそのお米を、全部持っていってしまったんです、軍隊のトラックで。みんな、お米の配給が出ると言って喜んでいたのに、もうもらえないで。そういうこともありました。

報道ウェブジャーナル「アジアプレス・インターナショナル」より

 

石丸:そのしんどい時は、配給がなくなって、ヨンスクさんはどんな風にして暮らしていたんですか?

朴:うちはもう、沢山ではないけど、少しでも日本の親戚から送ってきてもらっていたから。お米はどうにか闇で買えました。

石丸:日本から送金のあるお家と、日本から送金のないお家が、帰国者の間でもあったと思うんですけれども、帰国者の中でも貧富の差というのはありましたか?

朴:ありましたね、やっぱり。日本から送ってくる家、送ってこない家というのは、差がありました。

石丸:その「苦難の行軍」の時期は、帰国者もたくさん亡くなったんじゃないですか?

朴:そういうこともありました。

石丸:お知り合いとか、自分の親戚とか、友人の中で、苦難の行軍の時、食べ物がなくて亡くなった、そういう人がいますか?

朴:ええ、いました。よく知っている人なんか、私たちが援助してやろうと思っても、それをやって、解決することじゃないから。私たちもやっぱり、自分の家族を優先的に援助するようになるから。帰国者の中でも、日本から送ってこない人は、苦しい生活しましたね。

石丸:たとえば、どんなお知り合いがいましたか? 亡くなった人で、苦難の行軍の時に。具体的なお名前とか、どこに住んでいたとか、どこの出身かとか教えてもらえますか?

朴:だから帰国者の中でも、仕送りが来ない人は、そこでずっと暮らしている人と同じです、生活が。向こうでずっと暮らしていた人よりも、もっと苦しい生活していました。

石丸:なぜですか?

朴:向こうでずっと暮らしている人は、田舎にも親戚があったし、人によれば幹部をしている親戚もいるし、だから援助ももらえるんだけど、帰国者と言ったら、日本から送ってこなかったら、誰も援助してくれる人がいないじゃないですか。もう苦しい生活をしていました。

石丸:場合によってはね、すごく惨めな人生の終わり方をした帰国者もいると思うんですけど、そういう人は周囲にいましたか?

朴:いましたよ。

石丸:たとえばどんな人がいましたか?

朴:日本人の奥さんもいましたし、だからみんな。1959年から帰国問題が始まったじゃないですか、その59年の第一船で帰った人たちは、みんな苦しい生活をしていましたね。それからちょっと(日本から)送ってくる家はいいけど、それでも脱北する人もいました。

 

帰国者人生を振り返って

石丸:ヨンスクさんご自身はどうですか? 帰国を自分で決心したじゃないですか。騙されて帰ったというよりも、そこまで悪いとは思っていなかったにせよ、お父さん、お母さんに逢いたいから、ある程度覚悟して帰った。で、脱北するまで、ほぼ40年間を北朝鮮で暮らしました。今、自分の帰国者人生を振り返って、どう思われますか?

朴:息子2人が捕まっていったでしょ。で、それまではなんとか暮らしていたけど、そこを追放されて田舎に行ってから。

石丸:田舎に追放されたんですね、息子さんの件で。

朴:ここはいくらなんでも生活できるところじゃないから。なんとかして脱北して、もう機会を見ながら、結局脱北することに成功したんですね。今はもう韓国で、いい生活ではないけれど、なんとか平和に暮らしています。

石丸:北朝鮮での40年間は、今振り返って、自分の人生の中でどう思われますか?

朴:もう考えたくもないです、昔のこと。息子2人はもう捕まっていって、1人は死んでしまいました。1人は、死んだことははっきりわかりませんけれど、もう死んだ息子もどうやって死んで、いつ死んで、そんなことわかっていないんです。兄もそうだけど、自分の息子のこともわかっていないんです。だからここで暮らすくらいなら、死ぬ覚悟をして、脱北するしかないという気持ちだったんです。だから、ここに来ることに成功したんです。

石丸:では最後は、北朝鮮では暮らせないという決心をされたということですね。

朴:それで私が脱北した後に、兄弟がまだ3人残っていましたが、みんな、私が脱北に成功したことを、勇気があると言ってましたね。でもあの兄弟も2人死んで、今1人残っています。

石丸:では最後に、今日来ていただいた皆さん方に一言おっしゃっていただきたいんですけれど、帰国者たちは、どんな生を送ったのか、どんな生き様だったのかを、例えば、それは、帰らなくてもいい祖国に帰ったのか、それこそ幸せになった人もいたのか色々かもしれないけれども、最後に自分の人生40年、北朝鮮での40年を振り返って、皆さんに一言、北朝鮮に行った帰国者たちはこう生きてましたよ、ということを説明していただけないですか?

朴:もう、そういうことを言うよりも、勇気を出してみんなこっちへ来い、という気持ちです。

石丸:ああ、北朝鮮にいる帰国者は。

朴:ええ。なんとかして、勇気を出して、脱北しろと、そう言いたい気持ちです。

石丸:なるほど。ヨンスクさんには後でもう一度登壇していただき、お話をお聞きしたいと思いますけれど、一回目のヨンスクさんのお話はここでおしまいとさせていただきたいと思います。どうもヨンスクさんありがとうございました。(了)

 

「写真で綴る北朝鮮帰国事業の記録 帰国者九万三千余名 最後の別れ」
著者:小島晴則  高木書房より

 

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(2020年9月14日)

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