14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?

10回 心病み、亡くなった私の姉について

◆兄弟を支え続けた姉

これまで何度か述べてきましたが、今回は私の姉についてお話ししようと思います。
時は私たちが日本で暮らしていた頃まで遡ります。
 
私の姉は東京朝鮮高校を卒業後、朝鮮大学校に推薦で入学するチャンスがあったものの、ちょうど両親の離婚もあって大学進学を一旦諦めました。代わりに朝鮮新報社に就職して、組織の中で働きながら家族や弟の面倒を見てきました。

両親の離婚後、私は父に引き取られたのですが、ギャンブル好きの父は私の学費はもちろん、学生服すら買えないような経済状況でした。私が仕方なく家でゴロゴロしていると姉が訪ねて来ては「こら!何で学校行かないの!」なんて怒鳴ってくれたものです。最終的には私を学生寮のある栃木の朝鮮小中学校に入れてくれました。離れていても、いつも弟想いの姉でした。

北朝鮮への帰国には様々な理由がありますが、姉にとっては「大学進学」が最大の目標でした。しかし、配置された恵山(ヘサン)市で兄が製紙工場に配置されたのとほぼ同時に、姉も両江日報という新聞社の編集部に配置されてしまいます。

「女がその年で大学に行けるなんて思っているのか」
私たちの担当の役人からそう言われ、姉はたいそうショックを受けていました。

祖国で思う存分勉強できると考えていた姉の夢はあっさり砕けてしまいました。それでもなんとか総合大学の通信制に入学して、年に2回ほど平壌にあるキャンパスに通っていました。「自分が勉強できないなら、せめて弟を入れてくれ」と、市の委員会に、弟である私を何とか大学に入れてくれるように懇願したこともありました。

日本でも、帰国してからも夢が叶わず、結局弟たちの為に自分を犠牲にしてきた姉。「地上の楽園である祖国」への期待と現実とのあまりにも大きなギャップを受け入れることができなかったのでしょう。北朝鮮に帰国をしてから2年程経った頃、当時「分裂症」と呼ばれた精神疾患を発症しました。念願だった大学の通信科は、勉強中に発症した為に結局卒業できませんでした。

病気の予兆と一冊のノート

恵山市に配置されて、姉兄弟3人で八畳一間のアパートに住んでいましたが、姉は気が強く、兄としょっちゅう喧嘩をしていました。しかし今になって思うと、あれは姉の性格からなのではなく、病気の症状が出始めていたからなのだと思います。

別に怒るような事でもないことにも、姉はひどく取り乱して兄に突っかかりました。兄は、最初は妹相手だから「はい、はい」と聞き流していたものの、だんだん我慢できなくなり「うるさい、この野郎!」と怒鳴って姉をひっぱたくこともありました。そうなるともう大変。姉も負けじと、兄に立ち向かって、取っ組み合いまでには行かないのですが激しい喧嘩が始まるのでした。

二人の喧嘩は徐々に激しくなっていき、1973年に姉はその家から出ていきました。姉は勤めていた両江日報社の倉庫を人が住めるように少し改装して、そこで他の女の子達3人と一緒に暮らすようになりました。

1974年の大晦日かお正月を迎える頃、私は兄と大掃除をしながら「正月なんだから姉ちゃんを迎えに行こうよ」なんて話をしていた時、洗濯機の下から見慣れない一冊のノートが出てきました。私は手に取りページをめくり、そして思わず「わっ!」と声を上げてしまいました。

その声を聞いた兄がこっちに来て「何だ?」と訝しげに聞ききます。
「兄貴は見ない方がいい!」
「バカ、見せろ!」
兄は私の言う事を聞くはずもなく、ノートをめくり読み始めました。

私の姉は昔から文章を書くのが上手で、子どもの頃は大会に出たり、学校で表彰されたりしていた程でした。洗濯機の下から出てきたそのノートには、朝鮮語で

“今の兄は実の兄ではなく、日本で兄の姿に整形したスパイあり、その兄の姿をしたスパイが工場の爆破を企てていて自分が犯人に仕立て上げられようとしている”
などと綴られていました。ノートの最後にはこのように締め括られていました。

“もし自分が犯人であるとみんなに疑われても、自分は党中央と偉大なる金日成首領を命がけでお守りするのだ”

姉の妄想で埋まっているそのノートを見て、私たちは「精神病だ」と気付きました。そして周りの人にその事を隠し通そうと決めました。特に兄は、嫁入り前の妹が精神病だと知られたら結婚できなくなるのではと心配したのです。

 

病気を隠して結婚するも

ある日、姉の職場の幹部らが兄を訪ねてきました。「彼女、ちょっとおかしいんだ」
家のみならず、職場での言動にもなんらかの症状が出ていたのでしょう。

もう隠し通せないと悟った兄は「実は…これを見てください」と彼らに姉のノートを差し出しました。「妹が精神的な病だなんて職場に知れて、嫁の貰い手がなくなったら俺は一生恨まれてしまう。だから隠していたんだ」と涙を流しながら幹部の人たちに訴えました。兄として、妹に何もしてあげられないのがとても辛かったようです。

そんな兄をみて幹部の人たちは「まだ若い、まず病気を直そう」と、後日姉を病院に連れて行ってくれました。最初はどういった病気なのか特定するのも困難だったようです。姉の病的な症状が出るのは何らかの刺激を受けたときだけで、発症してない状態で病院に行ったところで一般人と変わらなかったからです。しかし、姉は映画を観た後に、自分をその映画の主人公のように振る舞うこともありました。

その後、いろいろと調べて新義州(シニジュ)にある有名な精神病院に姉を連れていくことになりました。そこでやっと精神疾患であるとの診断が出されました。その頃から姉は仕事を辞め、日本でいうところの生活保護のような社会保障を国から受給しながら、精神病院の入退院を繰り返すようになりました。

入退院を繰り返しているうちに症状が幾分落ち着き、1979年に結婚することになりました。相手は継父が帰国者である男性でした。仲介人のおじさんが姉の様子を見て大丈夫だろうと判断し、相手の男性には姉の病気を伏せて縁談を持ち掛けたのです。

しかし病気はすぐに明らかになってしまい、姉は妊娠6か月の時に離婚させられてしまいます。北朝鮮の法律上、当時、妊娠して4か月以上が経つと離婚裁判ができないことになっていたと記憶しています。姉の夫はうまく裁判官に賄賂を渡し、離婚を成立させたようでした。

 

進行する病気―この子は誰?

およそ1年後、姉は私と兄に離婚したことを告げず、一人で出産します。行く当てが無くなってしまった姉は、ある日突然職場の寮に居た私を訪ねてきました。背中に小さな赤ちゃんを背負って。

離婚の事実を知らなかった私は驚き、とりあえず寮の人に事情を説明して姉を一か月半寮に置いてくれるよう頼みました。しかし、それからしばらくして姉の病気が再発、悪化して再び長期入院することになりました。

私は入院している姉に代わって姉の娘を育てていました。しかし姉は自分の子を久しぶりに見ても
「この子は誰?」
「誰って、姉ちゃんの娘だろう」
「娘ってなぜ? 私、結婚もしていないのに何で娘がいるの?」
 自分の娘のことすら分別がつかないほど、症状はひどくなっていました。

姉の病気はますます悪化していき、ついに1991年の3月に病院で亡くなりました。電報を受け取った私が駆けつけると、既に遺体はなく、墓だけを案内されました。カルテを確認すると、私が病院から知らされた死亡日時とカルテ記載の日時が異なっていました。結局、私は今でも姉がいつ亡くなったのか正確には分かりません。

北朝鮮に帰国して19年目に姉が精神病院で亡くなって早30年が経ちました。北朝鮮での厳しい現実は、彼女にとってあまりにも酷なものだったのでしょう。ただ勉強したいという、無垢で当たり前の夢を叶えられないまま、姉は一人、「祖国」で亡くなったのです。(続く)

中国側から撮影した両江道の恵山市。石川さんがが脱北する前の2007年8月撮影

 

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(2020年9月14日)

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