14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?

第1回 私の家族 ~父は朝鮮人、母は日本人

「記録する会」では、2020年12月時点で大阪、東京、韓国で約30名の脱北帰国者の聞き取り作業を行ってきました。そのおひとりである石川学さん(朝鮮名:李在学=リ・ジェハク)の半生記を、ご本人の許諾を得てウェブ上で14回に渡り連載していきます。石川さんは中学3年生だった1972年8月に姉兄と三人で北朝鮮に渡り、中国国境に近い両江道の恵山(ヘサン)市に配置されました。約30年を北朝鮮で過ごし2001年に脱北、現在は東京で暮らしています。(聞き手:キム・ヘギョン)

◆戦前に朝鮮から日本へ渡った父

私は1958年4月、東京で朝鮮人*1の父と日本人の母のもとで、四人兄弟の末っ子として生まれました。1910年から1945年の間まで朝鮮は日本統治下にあり、そんな中で私の父は18歳の時に父の両親に決められた結婚から逃れるために日本へ渡り、上智大学に入学したんです。その後戦争に巻き込まれた父は(軍の)部隊に入隊して、飲み屋で働いていた母と出会って結婚し、そのまま日本に残りました。一番上の兄が生まれた当時、父は34歳でした。そのため、「結婚することが嫌だから無理やり逃げてきたって言うけど、本当は朝鮮に子供とかいたんじゃないかな」って、私の兄はよく言っていたものです。これは未だに謎のままです。

石川学さん 2019年11月東京にて(撮影 合田創)
石川学さん 2019年11月東京にて(撮影 合田創)

◆遠い祖国

私が、「帰国運動」が行われている中で北朝鮮に行こうと決めた理由は主に二つありました。一つ目は私が朝鮮学校で受けた教育による影響で、二つ目は私の家庭環境による影響です。在日朝鮮人が当時民族教育を受けるならば、朝鮮学校と韓国学校があるけれど、同じ民族でありながら、この二つの学校は敵対関係でした。韓国学校では金日成は独裁者であると教えられる一方で、東京第6朝鮮小・中学校と栃木県の栃木朝鮮小・中学校に通っていた私は、金日成を敬い忠誠を尽くすことが真の愛国心であり、民族愛であると教えられました。朝鮮学校で観た「血の海」や「花を売る乙女」*2の映画は、幼い私に“北朝鮮は良い国だ”という思いを描かせたものです。

子供たちへの教育方針というものは、本人たちの思想にすごく影響するものだと体感した出来事があります。ある日、朝鮮学校から韓国学校へ転校した私の同級生が授業中に泣きながら教室に入ってきたことがありました。「何で?どうした?何があったんだ?」と、私が聞くと、「あいつらは悪い奴だ」と。韓国学校で習ったことと、朝鮮学校でこれまで学んで来たことが正反対だって言うんです。

つまり彼は、朝鮮学校で敬われている金日成を、韓国学校では悪い独裁者だと習ったみたいなんですね。それは違うと反論した彼を、韓国学校の先生がひどく叱ったそうです。この朝鮮学校で受けた教育によって、不思議と私は実際に見たことも行ったこともない北朝鮮を、心の中で「祖国」だと思うようになりました。だからなのか、14歳だった私は北朝鮮へ行くことに抵抗がなかったのです。

◆両親の離婚

二つ目の理由について話しましょう。先ほど私は、北朝鮮へ渡ったのは家庭環境による影響でもあると言いましたが、私の家族は当時貧困にあえいでいました。経済的な貧しさに加えて、私はもう一つの貧しさに子供ながらに悩んでいました…心の貧しさです。私の両親は私がまだ小学生だった時に離婚し、私を含め、兄弟は皆、父親に引き取られて育てられました。母が家を出てからの私は、友達の両親がしていた夫婦喧嘩でさえも羨ましかったんです。夫婦喧嘩をするのにも、相手が必要なのですから。

そういえば、私が朝鮮学校に通っていた時、皆はお弁当を持ってきていて、お弁当がない子はパンを注文していたんですが、私はいつもパンを注文して食べる子供でした。お弁当を開いて「またこんなおかずかよ」と口を尖らせながら文句を言った友達に対して、「馬鹿野郎、ふざけんじゃねぇ。お前ね、お母さんがね、毎朝弁当作ってくれるなんて、幸せと思え!」なんて声をかけることもありました。

私は、友達のお母さんが作ってくれたお弁当が本当に羨ましかったんです。ある時は電気釜でお米を炊いて自分でお弁当を作って学校に持って行ったこともありましたが、自分で作ったお弁当なのもあって、お昼の時にみんなと一斉に蓋を開けながら今日はどんなおかずかな、なんて、期待することもなかったですよ。

◆博打好きの父 中学の制服も買えなかった貧困

両親が離婚する前までは夫婦二人で焼鳥屋さんの商売をしていました。両親が離婚すると、父がお店を畳んで外に働きに出るようになったんですが、父は大のギャンブル好きで、給料が入ると泊りがけで博打に行くほどでした。そんなわけで、父の稼いだお金はほぼギャンブルに消える日々の中で生活をしていた私たち家族は、中学校に入学する時には学生服も買えず、学費も払えませんでした。

学生服が買えないものだから、私が中学校の入学式に行かずに家で寝ていたら、姉から「こら!何で学校行かないの!」と怒られました。姉は男兄弟三人に囲まれて育ったためしっかり者で、怒ると怖かったんですよ。「制服もないのにどうやって学校行くんだよ!」と私も負けじと言い返しました。この時初めて姉に逆らったんですよ。だからね、姉の目つきにひるんで立ちすくんでしまった私は、まさに蛇に睨まれた蛙ですね。

父親が博打で帰ってこないのと、ひどい時には三日くらいご飯が食べられなくて、ひもじい思いをしていたのもあって、その後姉は私を学生寮がある栃木県の朝鮮小中学校に入れてくれました。

小さい頃のことを思い返せば、両親がまだ仲睦まじくて焼鳥屋さんの商売をしていた時は、母親に駄々をこねて、当時のお金で一万円くらいするレール列車のおもちゃを買ってもらってたな。だから、両親が焼鳥屋さんの商売をしていた私がまだ子供だった時は、それなりの生活が出来ていたということだと思います。

◆兄が韓国に強制退去の危機

私の兄は、当時喧嘩に明け暮れていました。「オヤジ!長男なかなか根性あるみたいで、学校なんか行かせずに俺のとこ寄越せよ」って、父がヤクザに声を掛けられるくらいで。私からみれば、家庭環境が影響していたのだと思いますが。

ある寒い冬の日、私は栃木県の寮から東京にいる姉と電車に乗って、長崎県にある大村収容所*3を訪れました。兄と面会するためでした。兄に面会をするために遠出をしたのはこれが初めてではなく、以前にも千葉県の少年院に収容されていた兄に会いに行ったことがありました。しかし、今回はなんと、日本から韓国への強制退去を言い渡されてしまったのです。いくら兄が韓国籍を持っているからといって、日本で生まれ育った兄にとって韓国へ送り返されるのは国外追放を言い渡されたといっても過言ではないことでした。

新潟から出港する帰国船のソ連のクリリオン号。1960年5月19日撮影小島晴則
新潟から出港する帰国船のソ連のクリリオン号。1960年5月19日撮影小島晴則

◆地上の楽園信じた姉、韓国送還の危機にあった兄

姉は、当時私たち兄弟の面倒を見るために大学進学を諦めて朝鮮新報社*4に勤めていましたが、ずっと大学への進学を夢見ていました。北朝鮮の「地上の楽園」の宣伝を何よりも信じていた姉は、北朝鮮に行けば教育を受けられる、長年の夢を叶えられると思っていたようです。そんな中、姉は北朝鮮で70歳のおじいさんが卒業証書を持っている写真を雑誌で見かけて、北朝鮮へ行きたい、大学に進学したいという気持ちがますます固まったようでした。

ちょうどその時期に兄の韓国への強制退去命令が重なったのをきっかけに、兄が韓国に強制送還されてしまうのであれば、いっそ北朝鮮に行った方がいいのではないかという結論にたどり着いたんです。兄弟の中の末っ子である当時14歳だった私は、それに付いて行くことになったのです。(続く)

インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第2回


石川学=李在学(リ・ジェハク)

1958年4月東京出身。日本ではマナブと呼ばれていた。東京第六朝鮮小・中学校、栃木県の栃木朝鮮小中学校の転入を経て1972年の8月、中学3年生の夏休みに兄姉と共に北朝鮮に渡った。2001年に脱北。現在は東京で暮らしている。

 

1959年からおよそ9万3000人の在日朝鮮人と日本人家族が北朝鮮に渡ったが、帰国者数のピークは1959年から1961年までで、その後徐々に希望者が減少。それを理由に日本政府は1967年に帰国事業の中断を決めたが、反発する北朝鮮は再開を求め、日本でも朝鮮総連や革新系の団体を中心に再開運動を展開した。3年余りの中断の後、1971年5月に事業は再開した。石川さんは新たに建造された万景峰号に乗って帰国している。


(注釈)

*1 本連載においては文脈によって「在日コリアン」「在日朝鮮人」「在日同胞」などの呼称を用いる。

*2「花を売る乙女」(72年製作)「血の海」(69年製作)は北朝鮮の映画作品。後にオペラや小説などでも作品化され在日朝鮮人に伝わった。

*3 米軍占領期の1950年12月長崎県大村市に設置された、強制送還が決定した不法入国者、犯罪者などを収容する施設。俗称「大村」。現在は大村入国管理センター。

*4 朝鮮新報は朝鮮総連の機関紙。

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(2020年9月14日)

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