14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?

第12回 戸惑いと団らんの結婚生活 

◆現地の女性を好きになった

1981年828日の夏の日、私は結婚しました。23歳でした。8月とはいえ、朝夕と昼間の気温差が20度もある恵山は、暑いと感じるどころか、むしろ街を吹く風がすがすがしく、新しい始まりの予感を含んだその風はとても身に染みて、印象深く覚えています。

私と妻は機械工場で出会い、およそ一年間に及ぶ付き合いを経て結婚することを決めました。恋愛結婚でした。帰国者は帰国者同士で結婚するのが一般的でしたが、私の妻は帰国者ではなく、現地の人です。それには理由がありました。私は兄夫婦と一緒に住んでいた時期がありますが、兄嫁さんと喧嘩というか、色々あり、まるで追い出されるような形で家を出て機械工場の寮に入ったので、「俺が大人になって兄嫁さんと同じ現地の女性と結婚したら、兄弟の仲も改善されるのではないか」と考えたのです。

もちろん、一番の理由は、その女性と心から生涯を共にしたいと思えたからです。妻とまだ付き合う前、坑道を作るために共に動員されていました。坑道というのは、戦争が起きた時に使用するトンネルのことです。軍事設備を入れるための車が通れる大きさのトンネルで、私はその空間を掘る作業に従事しました。妻はそこで食事を準備する仕事をしていました。ある日、私は胃を悪くして一日何も食べないで仕事をしていました。すると彼女がすごく心配してくれたのです。声をかけてくれ、お粥を作ってくれたりしたのがきっかけで仲良くなり、その後付き合うようになりました。

◆あなたとは結婚できない…帰国者だから

しかしいざ結婚を申し込むと「いや、あなたとは結婚できない、帰国者だから」と言われてしまいました。なぜ帰国者はだめなのか聞くと「帰国者の男性は、頭にくると斧で頭を割るでしょ?」なんて言い出すのです。なんだ、それ? と呆気にとられましたが、確かに以前そういった事件がありました。60年代の恵山で、精神病を患った帰国者の男が夫婦喧嘩の末、妻の頭を斧で割ったという事件でした。恵山のような小さい町ではそういった噂はすぐに広まったのでしょう。彼女もその事件の印象がとても大きかったようです。しかし、彼女は一緒に働く中で、次第に一生懸命働く私をみて、私の人となりを信頼してくれるようになりました。

結婚式といえば、やはりお金が必要ですよね。お金の工面をするために、私はまず日本でいうところの生命保険を満期解約し、300ウォンを得ました。本当はあと二か月くらい待たなければならなかったのですが、窓口のおばちゃんに「結婚するのにお金がないんだ」と正直に相談すると「わかった」とすぐ手続きをしてくれました。

こういうことは向こうでは珍しくなく、いくらでもあります。しかし、300ウォンでは結婚式を挙げるには到底足りないので、兄が結婚した時と同じように、日本から持って来ていたセイコーの腕時計を売りました。私が結婚した当時は一つ1200ウォンで売れたので、すごく助かりましたね。

結婚式の前に行う定番事として、恵山の普天堡(ポチョンボ)戦闘勝利記念塔と金日成の銅像に挨拶しにいきました。――そうです。私が14歳の時に初めて恵山に降り立った時に見た2つの大きなモニュメントです。なんとも感慨深かったですね。
結婚式当日は100人程のお客さんが来て、私たちを祝福してくれました。

地方の庶民の結婚記念写真
地方の庶民の結婚記念写真。卓上には対の蒸し鶏、卵、豚のカルビ、魚の他、中国製の酒、ジュース、餅、果物、菓子が並ぶ。2008年1月撮影。 (※石川さんではありません)
◆結婚して得た家族団らんの時間

実際に結婚してみると、帰国者同士で結婚する理由について、なるほどと思うことがたくさんありました。例えば、豚肉や豚汁など油の多い食事をした時、どんぶりに油がべったり付いていても、北朝鮮にはもともと食器洗剤なんて物はありません。そこで私が妻に「普通の洗濯用の石けんでも使って油を落とせ」と言っても妻は「なぜ?」と不思議な顔をするのです。私が「バカ、油がべたべたで、ばい菌なんかも付いてるだろ」と言っても「そんなこと気にしていたら朝鮮人はみんな生きていけないわよ」と返されるわけです。帰国したばかりの子どもの頃からずっと感じていた違和感ですが、結婚生活でも生活習慣が違って苦労しましたね。

さて、北朝鮮では結婚をすると行政から家が用意されるのですが、結婚して2、3カ月間待たなければいけませんでした。新しい家が配置されるまでの間は、妻の実家で一緒に暮らしました。その間に、日本の母が訪問団として初めて北朝鮮を訪ねて来ました。私が結婚を伝える手紙と、結婚式の写真を一緒に送ったことがきっかけでした。「長男も結婚して孫もいるし、末っ子まで結婚したんだから、これは行かないわけにはいかない」と母は強く思ったのでしょう。まもなく訪問団の一員として来ることになりました。

訪問前に母は結婚のお祝いとして10万円、当時でいうと800ウォンくらいを日本から送ってくれました。その事を知った兄が「俺にも金をよこせ」と言ってきて喧嘩になり、渋々兄にも300ウォン渡して、残りは妻が着る洋服の生地などを買うのに使いました。

結婚してからおよそ3か月後、私たちは恵山市にある六畳一間の平屋をあてがわれました。その家は、小さい庭がついていたものの、ボロくて狭かったですね。職場までは4キロ程距離があったので、毎日歩いて片道40分間かけて通勤しました。道中は坂道や階段もあり、冬は階段が全部氷に覆われていたのでそれは大変でした。通勤は大変でしたが、この間に長男と次男が生まれました。そして母、その後父も北朝鮮に来て、ひと時の家族団欒を楽しむことができました。それは幸せな時間でした。

その後の社会混乱や大飢饉を予測する人は、その頃、まだ誰もいませんでした。(続く)

金日成の肖像画がかかるのは恵山駅。駅裏に住宅が所狭しと並ぶ。
金日成の肖像画がかかるのは恵山駅。駅裏に住宅が所狭しと並んでいる。 2007年8月に中国側から撮影 アジアプレス。

 

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(2020年9月14日)

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