14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?

13回 金日成の死と社会混乱 大飢饉で脱北を決意

◆社会混乱で妻の商売が失敗

1981年に結婚し、その頃相次いで母や二番目の兄が北朝鮮を訪ねてくれました。前回お話したように、永住帰国してきた父とは近くで過ごすこともできました。私も二人の子宝に恵まれ、貧しいながらも幸せな一家団欒のひと時を過ごすことができました。

前述した通り、1991年の3月に姉が心の病で亡くなりました。そして父も、姉が亡くなったのを聞き、まるで後を追うようにその年の5月に亡くなりました。立て続いた家族の死は辛く、一人お酒を飲んでは昔の事を思い出して泣いたものです。

90年代に入ると、食糧配給の量が段々と減り、その後、1995年から2000年にかけて北朝鮮全土は社会混乱に覆われました。結果、配給制度が崩壊し、餓死者が大量に出てしまったのです。

妻は少しでも家計の足しになるようにと、95年頃から闇市場で薬売りを始めました。同じ薬を売る人は周りにもいたのですが、他の商売人と違って決して偽物を売るようなことをしなかったので、近所の人たちからは評判でした。

しかし地道に商売すればいいものを、妻は少しうまくいったことでつい調子に乗ってしまいました。「商売を大きくする」と言って、お金をすっかりつぎ込んでしまい、97年に大失敗してしまいました。

こんな事もありました。ある日小さな男の子が「母を助けてください!」と、泣きながらうちに入ってきました。急いでその子の家に駆けつけると、その家の奥さんは既に意識不明の状態で横たわっていました。男の子によると、商売人らしき人物が家を訪ねてきて、お母さんに薬のような物を飲ませ、気を失った隙に家の中のお金を全部盗んで行ったそうです。

私は慌ててその奥さんの鼻をつまんで口を開け、水をがばがばと無理やり飲ませました。そして薬を吐かせてなんとか生き返らせました。社会が混乱していたその当時、人を騙してお金を盗むような悪徳業者がいっぱいいたのです。 

市場で物乞いする餓えた子供たち。ビニール袋に麺の残り汁など残飯を入れてもらって食べている。1999年9月に咸鏡北道の茂山(ムサン)郡で撮影キム・ホン

 

◆首領・金日成の死と哀悼する人々

1994年7月8日、北朝鮮の人々が忠誠を誓っていた金日成が死去しました。

その日は、空に雲一つなく冴え渡っていました。私は慈江道(チャガンド)にある軍事工場を夫婦で訪れていました。そこで妻の一番目のお兄さんが働いています。軍事工場ではノルマを達成すると、工場内の模範労働者に洋服の生地や自転車を配るのですが、私と妻は、生活の足しになる物を少し分けてもらえないか、慈江道まで行ったのでした。

帰りの汽車の中で、男が酒を飲みながら「スリョンニム(首領様)が亡くなったという報道があったらしい」と話していました。私は思わず「ふざけたこと言うんじゃないよ! 首領様が死ぬはずないじゃないか」と言いました。
しかし、恵山(ヘサン)の家に帰って確認してみると、金日成が死んだのは事実でした。私と妻はその日のうちに供えるための食べ物と焼酎を1本携え、恵山駅前にある普天堡戦闘勝利記念塔の前に行きました。既に大勢の人が集まって金日成の死を悲しんでおり、私も塔の前で皆と同じように哀悼の意を表しました。実をいうと、涙は一滴も出なかったんですけどね。全部嘘というわけではないけど、模範であるためにはそのくらいの表現は必要でした。

記念塔の前に集まった人々は、皆まるでスイッチが入ったように「アイゴー! スリョンニム~」と大声を出して泣いたり、体全体で悲しみの表現をしたりしていましたが、私には大げさに見えました。
対照的に金日成に忠誠心を持つ人が多い世代の年配の人たちは嘘偽りが一つもない様子で、心から悲嘆に暮れているように見えました。中には大理石を血が出るほど拳で叩いたり、「スリョンニムが亡くなった今、生きる意味がないのと同じだ」と、断食してそのまま餓死してしまう人までいました。

恵山市中心に立つ普天堡戦闘勝利記念塔には、金日成を追悼する人波が絶えなかった。1994年7月、中国側から撮影石丸次郎
◆飢えて死ぬか脱北するかの選択

金日成の死の翌年の1995年に始まって5年余り続いた飢饉と社会混乱によって、毎日のように誰かが餓死していく様子を、私は目の当たりにしました。道端には死骸がごろごろ転がっていて、私には、その光景はこの世の地獄だと思えてなりませんでした。

日本からの仕送りも、国からの食糧配給も途絶えて食べるものがなくなり、一時期私たち家族は、鶏や馬、牛と一緒に家畜の餌を食べて飢えを凌いでいました。私の家族のように日本から仕送りがない帰国者たちを、北朝鮮の人々は거지포(ゴジポ、乞食の在日同胞の意)と呼んでいましたね。
そうするうちに、私たち一家は鶏の餌すら食べられなくなりました。私の頭には、自殺する考えまでよぎりました。そして、ついに日本にいる二番目の兄や叔母を頼りにして脱北しようと決意します。

うちの息子たちがお腹を空かせていても、私はいつも自分のことを責めていました。自分の能力が不足しているから子供たちを食わせてやれないのだと。ところが、1998年に北朝鮮がミサイルの発射実験をしているという報道を聞いてから、「ふざけんじゃねぇ、この野郎!」と目が覚めたのです。「ミサイルを打ち上げている場合じゃないだろう!」と。
もうこの国を信じてはだめだと思い至りました。そして、このままでは私も、私の家族も、いつ死んでもおかしくないと思うようになりました。

2001年の末、私は北朝鮮に一緒に帰国した一番目の兄に脱北の相談を持ち掛けます。そして二人で完全に凍結した鴨緑江の上を歩き中国への脱出を決行しました。14歳の少年の頃に兄と姉と三人で帰国したのに、脱出する時には兄と二人きりでした。負けん気の強い、兄弟思いで献身的な姉…。祖国への想いが人一倍強くて帰国を望んだ姉の亡骸は、北朝鮮に残したままです。

 

私は妻と子どもに何も言わず脱北しました。しかし、残した妻子に対して申し訳ないという気持ちよりも、自分がまず先に脱北するしかないという思いで必死に鴨緑江を渡りました。自分が脱北に成功した後、準備して家族を連れださなければならないからです。家族全員生き延びるか、あるいは全員餓死するか、道は二つしかありませんでした。

現在は朝中国境の警備はかなり厳しくなったようですが、当時もなかなか厳格でした。私たちは国境警備隊に賄賂を渡し、中国への越境を見逃してくれるよう頼みました。

中国への越境を果たした後、私は日本にいる二番目の兄に電話をして、少し仕送りしてほしいとお願いしたのですが、返事は冷たく「冗談じゃない。俺も生きていかないといけないんだ」と、初めは一蹴されてしまいました。それでもなんとか兄の友達数人がお金を出してくれて、そのお金を使って中国で偽の身分証明書を作り、私は瀋陽から中国人観光客として日本への入国を果たします。2002年9月20日のことでした。脱北してから実に10か月弱の時が経とうとしていました。 (続く)

 

<<インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第12回

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(2020年9月14日)

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