14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?

第6回 配置先も住居も希望叶わず

◆配置先でもめる

一緒に帰国した人たちは、招待所から一人、また一人、北朝鮮各地に配置されて行きました。当時の私はまだ14歳の学生でしたから、早めに私たち兄弟を配置することになると僑胞総局からは言われていました。しかし、結局配置先が決まったのはおよそ1か月後でした。

どの帰国船も、どの地域に何世帯を配置するかが、ある程度事前に決まっていました。例えば平壌市に2世帯、清津市に3世帯という具合に配置します。帰国者を受け入れるには住むための家が必要ですが、人口が多い平壌市などはもともと空き家が少なく、市の帰国者受け入れ用の家が埋まってしまうと、市から僑胞総局に配置する人数を減らすよう要請が出されます。そうすると、別の地方に配置されることになります。

配置先に関しては、技術者集団のようにあらかじめ行くところが決まっている者を除いて、私たち兄弟のように何も決まっていない場合は、希望を多少聞いてくれることになっていました。例えば「親戚がいる近くに行きたい」といった希望です。しかし、私たち兄弟の場合、「平壌に行きたい」という姉の希望は叶いませんでした。

私たちは最初、元山(ウォンサン)に配置されるだろうと僑胞総局から言い渡されていましたが、姉が帰国を決心した大きな理由の一つは平壌市内にある大学に進学することだったので、元山への配置はきっぱりと断りました。
そうこうしているうちに元山の枠が締め切られたので、私たちは次に咸興(ハムン)への配置を命じられましたが、それも断りました。断り続けた結果、清津に残るよう言い渡されたのですが、それも断ると、「君たちの行くところはない」と言われてしまいました。

私たちの乗った帰国船の全員の配置が終わる頃には選択肢がなくなってしまい、私たち兄弟は、受け入れ場所として残っていた恵山(ヘサン)という所に最終的に配置されることになりました。およそ1か月続いた招待所での生活はこのようにして終わり、出会った仲間たちと別れることになりました。

地図

 

◆野生の虎が出る? 最北端の恵山に向かう

しんと冷えた空気の中、私たち兄弟三人は恵山へ向かう蒸気機関車へ乗り込みました。招待所に着いた日から32日経った9月26日のことです。外を吹く風は冷たく、気温は9月下旬にしてはずいぶん低いように感じました。汽車の窓の外には雪が風に舞っていて、少しばかり積もっていました。

恵山への配置が決まってからというもの、私はずっと不安と緊張でいっぱいでした。もちろん招待所の仲間たちとの別れが辛かったのも原因ですが、何より招待所で聞いた噂が気になって仕方なかったのです。「恵山はすごく寒くて、野生の虎と熊が出る」という噂です。帰国船に乗った時のワクワクした気分は一変、汽車の中の私はとても憂鬱でした。

私たちは汽車に乗ると寝台車の方に案内されました。北朝鮮の一般住民たちと接触しないように、便所に行く時でさえ(帰国者の)朝鮮総連の人に常に見張られていました。今思い返すと、監視が厳しかったのは招待所で日本に帰ると言い出した人がいたからだと思います。

およそ二日間、汽車に揺られ続けました。恵山に向かう旅の途中、私たちは吉州(キルチュ)というところで乗り換え食事を摂りました。その食堂には、なんと犬の肉がメニューに書いてあったのです。北朝鮮へ渡ってくる前、父が食べているところを見たことがあったのですが、やはり日本で育った私は犬を食べることに抵抗がありました。

列車が恵山に着いたのは夜でした。闇に包まれた恵山の街に浮かび上がる40メートルにも及ぶ戦闘勝利記念塔と金日成の銅像は、私にとてつもない安心感を与えてくれました。恵山には野生の虎が出るんだと列車の中でびくびくしていたので、森や荒野ではなくライトアップされた金日成の銅像を見てほっとしたのです。

◆祖国での住み家はアパートだったけれど…

恵山では、家が見つかるまでの間旅館に泊まりました。これまた配置先を決めた時と同じく、時間がかかったため、私たちは、結局1カ月間も旅館にいることになりました。

食事に困ることはなく、旅館では3食とともデザートまで出されました。しかし高級だというビスケットは甘くないし、食感も段ボールをかじっているようでした。文句を言っていられるのも最初のうちだけで、旅館に滞在しているうちに自分たちで調達した食べ物がなくなってしまったので、仕方なく「段ボール味」のビスケットも食べるようになりました。
家が決まって旅館から引っ越す人たちの中で、私たち兄弟はまた最後に配置されました。姉は兄弟3人だから二部屋ほしい、水道と便所は必須だと担当者に伝えましたが、その希望も配置先を決める時と同じく通りませんでした。条件に合う家があると言われて、いくつか直接見に行きましたが水道も便所もありません。姉は「冗談じゃない!」と、担当者と言い合いになることもありました。

恵山で家を見つけられないまま旅館で1カ月ほど過ごしましたが、結局、仕方なく指示されたアパートに引っ越すことに決めました。5階建てのアパートで、部屋は一つでしたが、共同の便所と水道がありました。

幸いなことに、どうしてもと言う姉のために担当の人たちが折れて、私たちが住むことになった2階の12号室に水道を引く工事をしてくれました。日本を出発してからおよそ2か月が経った頃、ようやく北朝鮮での新生活が始まりました。(続く)

鴨緑江を挟んで中国から見た両江道の恵山市

鴨緑江を挟んで中国から見た両江道の恵山市。2010年7月に撮影アジアプレス

 

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(2020年9月14日)

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