「『共和国』訪問記-若き日に祖国でのこと ①」

「『共和国』訪問記-若き日に祖国でのこと ①」
かつて新潟=元山 を繋いでいた定期船「三池淵(삼지연 )号」 コラム筆者提供(1970年代後半)

 

新潟を出発した「三池淵号」は二日後の朝方、予定通りに、元山港の沖合いに停泊して、入港のため待機していた。私はそのデッキからうっすらと靄のかかった元山の町並みを眺めていた。遠くの正面に高層アパート二棟だけがぽっかりと浮かび上がっていて、幻想的であった。

 

午前8時ごろからゆっくりと「三池淵号」は沖合いから元山港に向かう。午前9時前ごろから埠頭で待機していた宣伝隊と思しき集団が、楽団が奏でる「金日成将軍の歌」をBGMにしながら、「偉大なる首領金日成元帥万歳!「朝鮮民主主義人民共和国共和国万歳!」をマイクで叫び続けている。タラップを下り「祖国」の地に足を踏み入れた瞬間、「○○○!」と私の日本名の名前を大声で連呼する叔父とその家族たちに揉みくちゃにされる。私が2歳の頃、北朝鮮に帰国した叔父なので、記憶は全くなく、ただ写真だけでみていた叔父の顔と声が現実となって私に迫ってくる。

これが21歳のときに初めて訪れた「共和国」の原景である。

 

ピョンヤンの少女たち コラム筆者提供(1970年代後半)

そしてその後、たっぷり「社会主義祖国」の「洗礼」を受けたあとに、叔父の自宅で2泊3日過ごすことになる。学生の分際にもかかわらず、「代表団」というだけで、あてがわれたスウェーデン製の「ボルボ」と運転手、そしてお決まりの「指導員」という名目の「監視員」を交えて、初日の宴がまだペンキの匂いが取れない叔父の家で始まった。叔父は「指導員」にお酒を積極的に勧め、当たり障りのない話題で場を盛り上げようとするが、それ以外の家族は「指導員」の存在があるのか、相槌を打つ程度で、表情は余りさえない。その場の空気を察したのか「指導員」は「あとは家族同士で積もり積もった話でもしてください」と言い残し、2時間ぐらいで場を去った。

1970~1980年代、冬季に極寒となる北朝鮮ではスウェーデン製のボルボが、労働党幹部は運転手付きで常用されていた。

 

そのあと、日本の話題で場は盛り上がった。

「美空ひばりと石原裕次郎は今も人気があるのか?」「新幹線ができたらしいが東京~大阪を何分ぐらいで走るのか?」等、やはり日本の情報にすごく飢えているようで、お土産を包んでいた新聞紙を端から端まで読みながら、矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。そして、夜もふけ、布団を引いて、叔父と二人きりになったとき、叔父がポツリと「この国の社会主義は建前で、金がないと生きていけないシステムになっている。それとお前が総連の活動で評価されることは自分たちの政治的評価に直結している。お前たちはこの国では『敵区革命家※1』という位置づけにされているから、車もあてがわれ、特別待遇を受けている。しかし、どんなことがあっても南朝鮮で活動するようなことだけはするな」また「お前たちは金剛山観光を楽しむことができるだろうが、サムチョン(叔父)たちはここで20年近く住んでいるけど、一回もいったことがないので、サムチョンが還暦になったらお前が金剛山で祝ってくれ」と本音トークを始めた。

(金剛山:금강산  天女伝説のある朝鮮半島の名山。世界的な名勝地 コラム筆者提供(1970年代後半)

 

 

私は、家族訪問の後、またピョンヤンに戻り、「参観事業」といわれる退屈な「名所巡り」をすることになるのだが、やはり叔父の言葉がずうっと耳元から消えることはなかった。

その後、私たち「代表団」は元山経由で金剛山に行くことになり、港近くのホテルに投宿することになった。叔父の家はそのホテルから徒歩10分ぐらいの距離だったので、道も大体覚えていたこともあり、「昼寝時間」(当時)を利用して、こっそりホテルを抜け出し、目立たないように地味な服装で叔父の家へ一人向かった。

家に着くと鍵がかかっていたので、数度ノックをしたら叔父がびっくりした表情で私を見るや否や、「お前、よく一人で来れたな。尾行されていなかった?」と慌てふためいていた。玄関に入り、少しだけ話をしてホテルに戻ったのだが、ロビーですぐに男性に呼び止められた。「先生、今回だけは見逃しますが、次回からは事件化することになります」と言われ、私は肝を冷やした。(もちろんその後「保険」のためその男性にタバコとパンストをお渡しした。)これがその後約20回近く「共和国」を訪問することになる一回目の記憶である。(続く (P)

※1「敵区革命家」とは「共和国」を敵視する米・韓・日の国内等で「共和国」のために活動する人々のこと。