第 1 回 帰国に至る経緯と到着後に見たもの   在日帰国者の証言 朴永淑(パク・ヨンスク)さん

 第 1 回 帰国に至る経緯と到着後に見たもの   在日帰国者の証言 朴永淑(パク・ヨンスク)さん
2018年7月で開催された証言集会の様子。撮影 合田創

 

2018年7月8日に大阪で開催された集会、『在日帰国者は北朝鮮でどう生きたか?~北から逃れた人々を迎えて~』における、朴永淑(パク・ヨンスク)さんの証言録です。
帰国の経緯、現地での暮らし、ご家族の歴史、帰国者の眼から見た北朝鮮社会の様子など、貴重な話が満載です。(聞き手 石丸次郎)

―朴永淑さんプロフィールー
1938年、広島県広島市出身。広島市に原爆が投下された8月6日には、疎開先から遠くにある原爆雲を目にした。その後、疎開が終わり広島市に戻る。父親の事業の失敗と帰国運動が重なり、先にご両親と10人兄弟姉妹のうち7人が帰国。最後に(1962年)自身が帰国。1999年に北朝鮮を脱北後、現在は韓国で暮らしている。

◆帰国の経緯

石丸:最初に、なぜ帰国をしようと思われたのですか?

朴:最初に父母兄弟が先に帰ったので、姉の家にいたんですけれども、やはり父母兄弟と離れてみたら、恋しくて、そして行くことを決心したんです。寂しさで。

石丸:先にご両親とご兄弟が帰られましたよね。手紙はもう北から来ていたんですか?

朴:来てました。

石丸:帰国事業というのは、61,62年までに帰った人が大部分で、それ以後急減していきます。帰った人がちょっと違うなと思って、日本に残った家族に帰ってくるなと知らせてきた人が多いと言います。ヨンスクさんが北朝鮮に帰ると伝えたときに、向こうのご両親、ご兄弟の反応はどうでしたか?

2018年7月で開催された証言集会の様子。撮影 合田創

朴:兄から手紙をもらったんですけど、そこには、「君は決心したら気が強い、気が強いというか、自分の決心を最後まで押し通す強さがあるんだから、自分の考え通りにしなさい」と。これは帰らないほうがいいということなんですよね。わかりましたけど、やっぱり父が、いくらもたたないうちに亡くなるだろうということはわかっていたので、父が亡くなる前に一目でも会わなきゃ、もうその気持ちで帰りました。

石丸: 60年、61年に帰国した人たちからですね、北朝鮮の経済状態はあまりよくない、朝鮮戦争が終わってまだ7,8年なので、決して地上の楽園じゃない、しんどいということは、当時の在日社会の中で知られていたんじゃないですか?

朴:わかってましたよ。手紙には、唐辛子を送ってくれ、味の素を送ってくれ、そんなことが書いてあって、他のものも含めて、何度送ったかわかりません。

石丸:それはヨンスクさん自身が送ったんですか?

朴:味の素は、私が何キロも送りました。

石丸:それは帰国船を通して送るんですか?郵便で送るんですか?

朴:帰国船で帰る人に頼んで、送ってもらったんです。

石丸:どんな国だと想像してましたか?大宣伝はしてましたよね、日本の中では。

朴:本を読んだとき、関貴星(セキ・キセイ)という人が書いた本なんです、「楽園の夢破れて」。それを読んだから帰る気はなかったんですよ。だけど、父が亡くなる前に、一目でも会わなきゃという、その最後の一年で帰ることにして、帰ったわけですけど、帰ってみたら、私が考えていた以上にもっと、ここで人間が暮らしていけるのかなと、そんな気がしました、最初は。でも、10年経てば少しは良くなるんじゃないかなという希望を持って生きてたんですけど、10年経っても、20年経っても、全然変わらないんですよ。それで、私は99年に決心して、脱北したんです。

石丸:帰国することをご両親とご兄弟が決められた時期の広島の雰囲気はどんな感じでしたか?もう、祖国に帰るんだ、差別から逃れるんだ、あるいは、これから勉強ができるんだ、そういう宣伝をすごくしてましたよね。どんな雰囲気で帰られたんですか?

朴:そのころ父が事業を失敗して、生活苦にあったんです。弟が、学校の成績が優秀だったんですよね。でも(経済的に)勉強ができなくて。向こうに帰れば勉強ができるんだ、だから、弟が最初に行くって決心したわけなんですね。だけど、弟がその時17歳かだったんですけど、母としてはやはり幼い息子を一人そこに行かせるのはかわいそうで、兄弟が10人ですけど、俺も帰る、俺も帰る、と言いながら、最初は兄と弟二人、父母と、帰ったんですね。父母と、兄一人、弟二人、5人が最初帰ったんです。二番目に兄と兄嫁と子供たち帰って、62年度に私たち帰ったんですけど、(私には)みんな、帰る前にはわかってたんですよね。それでもやっぱり親子兄弟とは、離れては暮らせないんですよね。もういろいろ事情もあったんですけど、結局帰って生活するようになったんですけど、何年たっても暮らしが苦しいのは全く変わらない。日本にいるときは苦しくても自由がありましが、向こうに行けば自由もないし、言いたいことも言えない、不満も言えないし、自分の国だからと言っても、やっぱり人間は、自由がないといけない、生きていけないじゃないですか。そういう生活をしながら、兄が、何のためかわかりませんが、捕まっていったんですよ、一人。その兄が捕まっていったことに不満を感じて、政府があんまりひどすぎるという不満を言った(別の)兄も捕まっていって…。

石丸:ちょっとここで、少し時間戻しますね。新潟のセンターに行かれたんですよね。そこで、御本人の意志で北朝鮮に渡りますか、という確認はありましたか?

朴:再確認がありました。再確認というのがあったんですけど、その時になっても、帰らなくていいというチャンスはこれが最後だって思いながらも、一度決心したら、決心した通りにしなきゃという気持ちで帰りました。

石丸:その決心したとおりに、貴方はしなさいよと(兄からの)手紙に書いてあったのは、帰ってくるなというサインだったんですか?

朴:あんたの意志は強いんだから、その意志を守れ、ということが書いてあったということは、帰ってくるなということなんですね。

◆清津の港に着いて見たものは

石丸:それで、新潟に行くときは、一人で行かれたんですか?それともほかに広島の方も一緒に?

朴:そうですね、●船で帰る人は、他にも広島にいました。一緒に帰りました。だけど、家族の中では私一人で。

石丸:それから次です。船に乗りますね。乗って、清津の港に着きます、東海岸、日本海側の港ですね。多くの脱北者、帰国者の人にインタビューする時、だいたいが同じことをおっしゃるんですけれども、船の上から清津の港町を見て、もうびっくりしたと。

朴:ええ、がっかりした人がたくさんいましたよ。

石丸:ヨンスクさんはどうでしたか、清津の港では。

朴:がっかりしたのは私もそうでしたけど、しかし、望みをかけて帰ったんじゃなくて、親に逢いたくて帰ったんだから、決心はついてました。だけど、その時船の上から、この船に乗って日本に帰りたい、という人もいたんです。泣きながら女の人が、もうこの船から降りない、そう言っている人もいました。

石丸:どんな風景だったんですか、清津の港は。どんな風景が目に飛び込んできたから、そのようにびっくりされたのでしょうか?

朴:帰国者の人が着てる服は、日本で当時着ていた服を着ていたんですけれど、北朝鮮の人たちの着ている服、その姿を見たら、区別がつくんですよ。冬だったんですけれど、寒い冬なのに、もう靴も破れた、そういう靴を履いて、モンペを着て、寒いから、その上に綿入れの服を着てはいますけど、日本から帰ってきた帰国者は立派なものを着て、その帰国者たちは元々生活が楽だからいいものを着ているんじゃなくて、日本ではそんなボロボロの服を着ている人はいなかったですから、その頃は。北朝鮮に生まれてそこで育った人は、服装で区別がつくんですね。そして来たら、清津の町は港町だけど、日本とはみんな比べられないような姿、光景でした。

石丸:清津の町というのは、今、北朝鮮第3の町、人口70万人くらいと言われてますけれども、当時の清津ってどんな風に見えたんですか?

朴:昔のことでよく覚えてないけれど、貧しいということは、一目でわかりましたね。

石丸:それは建物が?

建物もそうだし。

石丸:あまり高い建物がないとか、車がないとか、埃っぽいとか…。朝鮮戦争の傷跡がまだ残っているとか、そういうことですか?

朴:そうですね。それから、招待所といいますか、日本から行った人たちは、一週間くらい、そこで泊まるんです。そこでも見たら、あの、貧しいというよりも、普通日本ではそういう光景は見られないような光景ですね。食べ物も、初めてそこに日本から来た人を迎えるんだから、いいものを出したい、いいところを見せたいというのはわかりますけれど、出されたものが食べられなかったんです。(続く)