「『共和国』訪問記-若き日に祖国でのこと ③」

「『共和国』訪問記-若き日に祖国でのこと ③」

「ウ・イニ大女優処刑事件」とは、「ウ・イニ」というのは「共和国」でトップスターとも言われる存在であったのだが、在日帰国者の男性とダブル不倫関係にあったらしい。ある寒い日に、男性宅のガレージの車内で事に及んでいたらしいのだが、ふたりはそのまま眠ってしまい、男性は一酸化中毒で死亡、「ウ・イニ」は一命をとどめたのだが、それが金正日に報告され、そのまま芸術関係者を集めた目前で公開処刑をしたという話であった。

その当時、「共和国」を信じていた私としては、まさか、そのような前近代的な方法で「殺人」が行われていることに驚いて、叔父に「裁判とかはしないで、いきなり処刑ですか?」と聞いた。叔父は、目を丸くして吹出しながら、「とにかく、お前は初めての祖国で感動と喜びに満ちているが、人間も社会も表と裏、光と影がある。表と光ばっかり見ていたら、裏と影は見えないし、見ようともしなくなる」と言われた。

このような話から私は、日本でこの祖国の断片しかまだ知っていないのではないかという疑念が沸き上がってきた。そして、私と年の近い従兄弟が大学生でピョンヤンに住んでいたので、彼とは頻繁に会って本音でさまざまな話をした。ホテルの部屋で話をする時、彼はいつも天井を指差して「盗聴」という素振りをしていたので、本音の話をする時はホテルの表に出て普通江や大同江を散策しながら、この祖国の裏と影の話ばっかり聞くようになった。

元山のときとは違って一人で出歩くのでもないので、現地の従兄弟とホテルを出るときに、「少し散歩して戻ります」と「監視員」らしき人に事前に報告し、戻ったときは「タバコ」などを渡していたせいか、特別咎められることもなかった。彼は、日本で生まれたのではなく、現地で生まれていたので日本のことは家庭内で両親から聞かされた程度で、日本語も解さなかった(その後、帰国者ではなく現地の女性と結婚した)。

そのときに出た話が、「大同江ホテル事件」である。当時「大同江ホテル」は朝鮮総連系の商社が駐在事務所を置いていて、長期滞在(3ヶ月から6ヶ月程度)拠点にもなっていた。そのためかどうかわからないが、料理がおいしく、従業員の女性たちも洗練されていた。

上述したように、当時は日本の出版物など検閲もなく持込が自由だったこともあり、いつのまにか日本の「裏ビデオ」が出回ったようである。それを金持ち帰国者の「遊び人」連中たちが閲覧しながら、楽しんでいたらしい。当時、ホテルのビリヤード場などに昼間からお酒を飲みながら、たむろしている現地人風ではないような人々を見かけることが何回かあったのだが、彼らが日本に住む金持ち親族からの多大な仕送りで生活している帰国者たちであることを後ほど知った。

従兄弟は「彼らのような存在が帰国者の社会的評価を著しく下げている」と言って憤慨していたが、賄賂等で職場の上司には出勤しているように取り計らってもらい、彼らなりの「自由」を楽しんでいたのだろう。仕事をさぼって、昼酒でビリヤードというのがささやかな「自由」というのも胸が痛むことである。

ところで、その彼らが中心となって、「大同江ホテル」の女性従業員たちを金でそそのかしたのか、「主演女優」に仕立て上げ、そして自らその監督兼男性役となって、「裏ビデオ」を撮影しだしたのである。それを当局が摘発して、登場人物全員が芋づる式に逮捕された。そのため、「大同江ホテル」は一時閉鎖となる。そのあと、在日親族の送金等でその連中たちは釈放されたらしいが、そこの女性従業員たちはどうなったかわからないという話だった。

私の心の中では「祖国の光と影」と「在日帰国者」というフレーズが膨れ上がってきていた。

 

(本文とは関係ありません)

 

ある日、「玉流館」というピョンヤン冷麺の有名店に行くことになった。代表団のメンバーは噂に聞いていただけでなく、ホテルの食事にも飽きていた頃なのですごく楽しみにしていた。いざ、玄関前に到着すると、私たちをじっと見つめる老若男女たちが長蛇の列をなしていた。当然のごとく案内員はその人たちを無視して、私たちを一番先頭の列から優先的に入店させるのだが、行列をなしている人々は当然口にこそ出さないが、「怨嗟」の視線を私たちに向けていた。彼からすれば、苦労して入手したであろう配給のための「糧券」(一種の食券)をもって、今か今かと待ちくたびれているところへ20名近い「VIP」が突然割り込んできたのだから憤懣やるかたなかったであろう。

「敵区革命家」だのとおだてられ「特権扱い」されることに、私は徐々に「違和感」と「拒否反応」が出てきたが、代表団の中では「祖国の光」と「指導者の御威光」にのぼせ上っているメンバーたちのほうが多かった。このようにして「権力」や「権威」に絡み取られ、「反発心」や「良心」が麻痺していく人間の姿は、古今東西どの国にも社会にもあるだろうが、その当時私はまだまだ「半信半疑」の状態で、きっぱり「祖国と指導者」に決別できずにいた。

その約半年後、私は「総連活動家」として人生のスタートを切ることになった。

それ以降、私は10数回以上「祖国訪問」を繰り返すことになるのだが、今振り返ってみると、まだ配給制度が機能していた80年代までは、親族からも心のゆとりを感じることができたが、90年代以降急速に下り坂を転げ落ちるようになり、祖国の人々は生活維持に奔走することになる。それは、「共和国」の本質があらわになった時期でもある。

次に私が「共和国」の地を踏むのは、今の体制が変化あるいは転換したときであろう。

しかし、「変化」あるいは「転換」が有り得るのだろうかという、自問自答を繰り返しながら「北朝鮮帰国者」の「記憶を記録する」活動に粉骨砕身している日々である。(了)

(P)