14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?

14回 北朝鮮生活30年、日本への帰還

在日帰国者として北朝鮮で30年を過ごした石川学さんのインタビューは、今回が最終回です。90年代後半の大社会混乱と飢饉を生き延び、決死の覚悟で中国に脱出、日本に戻ることができた石川さん。日本を離れた時14歳だった少年は、40代半ばの壮年になっていました。
石川さんは、その後北朝鮮に残してきた家族を脱北させることに成功。妻と息子は20067月に来日し、その後は韓国で暮らしています。現在、石川さんは東京都内で仕事をしながら暮らしています。一緒に脱北したお兄さんも東京にお住まいです。


◆日本に帰って来て良かった

日本での暮らしは、もちろん大変なこともありましたが、民主主義の国で、人権が守られている。自由に物が言えて、自由に自分の考えも表現できる。日本で生まれ育った人からすればそんなの当たり前だろうと言うでしょうけど、私はその「当たり前」の全くない世界で生きてきました。言いたいことも言えず、叶えたいことも叶えられなかった。これは皆さんにとって想像を絶することでしょう。北朝鮮は特権階級の社会だから、私たちのような労働者は何の人権も与えられず、守られることはありませんでした。

子どもの頃は布団の中でこっそり泣いた日もありましたが、もうここで生きていくしかないのだと言い聞かせてきました。何度も心の中で言い聞かせて、いつの日か日本のことを思い出すような会話を、帰国者の友達同士でもしなくなっていました。

しかし「苦難の行軍」以降、情勢が庶民生活の中でもひどいところまできたことを実感し、自分自身を責めたりすること自体がおかしいことに気づきました。中国に行ってダメならもう終わりだと覚悟を決めました。脱北したことについて後悔はありません。命がけで大変な思いもしましたが、日本に帰って来られて本当によかったと思っています。

鴨緑江の上流
石川さんが越境した鴨緑江の上流。冬季は凍結するが、住民たちが氷を割って洗濯している。2014年3月に中国側から撮影アジアプレス。現在は新型コロナウイルスの流入を遮断するとして、川には一切近づけない。
◆死に目に会えなかった母

母とは、1982年2月に祖国訪問団の一員として北朝鮮に暮らす私たち家族を訪ねてくれた時に会ったのが最後となりました。その年の12月に亡くなったのですが、私にその知らせが届いたのは翌年の夏のことでした。訃報は組織からの無味乾燥なもので、ただ何月何日に亡くなったことだけが知らされました。知らせを受けた日は戸惑いと悲しみで動員先にも行けず、家に帰って妻に母の死を知らせた後、酒を飲んで泣き暮れました。

数年後、北朝鮮を訪問した2番目の兄に再会した時、やっと母の亡くなった理由を聞くことができました。食道がんで亡くなったそうですが、発見が遅れてしまったことを兄も悔やんでいるようでした。母には親孝行を何一つしてあげられませんでした。北朝鮮を訪ねてくれた時も何もできなくて。母が「日本のコサリ(わらび)と味が違う」って美味しそうに食べてくれたから、できたことと言えば、せめて乾かしたコサリやトラジ(桔梗)を日本に持たせたことくらいでした。

「オモニ、じゃあな」と、日本に帰る船に乗った母を見送ったのが最後でした。死目に会うことも出来ず、息子として何もできなかった、という思いが溢れました。その死を受け止めるのには時間がかかったものです。

◆過酷体験で枯れた

脱北し日本に帰ってきて、一番に訪ねた場所はやはり母の墓でした。2番目の兄が母の墓の場所を教えてくれました。こんな立派なお墓があるのかと思いましたね。「お袋、末っ子が生きて帰って来たよ」と母の墓に語りかけましたが、なぜか涙は出ませんでした。

普通にせめて人らしく暮らしてきたなら、そういう感情がまだ残っていたかもしれません。しかし、いつ食えなくなって死ぬかもしれないという状態で、脱北に至るまで幾度もその波を乗り越えきたからなのか、もうとっくに人間らしい涙が枯れてしまったのでしょう。

1996年から続いていた飢饉で、私は餓死した死体が道端で転がっていたのを沢山見てきました。大人だけでなく、子どもの亡骸もありました。人間というものは恐ろしいもので、最初の頃は死体を見ると、本当に辛く、朝鮮語でいうと가슴을 쥐여 뜯는다(心臓を鷲掴みにされたような) っていう気持ちになりましたが、死者が日に日に増えていき、飢饉が何年間も続くと、死体を見ても「あ、またか」という風にしか思わなくなっていました。感情が麻痺してしまったのです。

日本からの仕送りが途絶えた帰国者も次々に亡くなっていきました。私も皆も、自分の生活に精一杯で、とても他人のことを構っていられる状況ではありませんでした。厳しい環境をなんとか生き抜いた私でしたが、母の墓前で泣くことも出来ず、ただ静かに無事を報告することしかできませんでした。母に申し訳ない気持ちになりました。

道端で杖をついて歩いているお婆さんを見ると、「うちのお袋も生きていたらあれくらいの歳だろうな」なんて思ったりすることがあります。一度、道路の舗装の仕事をしていた時に、お婆さんが道を渡ろうとしているのを見て、その人を負ぶってあげたことがありました。「悪いねぇ」なんて言われましたが、「うちのお袋も生きていたらお婆ちゃんくらいの歳だから、親孝行のつもりです」と答えました。

 

北朝鮮に帰国してどんな絶望があったとしても、兄姉を責めたり悲観したりせず、後悔しないように生きてきました。しかし、一つ後悔があるなら「お袋、親孝行できなくてごめんな」ということ。帰国船出港前に見えた懸命に走ってくる愛おしい母の姿、私たち兄姉弟を見送る母の表情、いつもは凛としていた母の、あの日の乱れた着物姿を思い出す度に母への懐かしい気持ちと後悔の入り混じった感情が湧いてくるのです。

母を懐かしく想う感情は、かろうじて私の中に残されているようです。(了)

 

石川学さん 2019年11月東京
石川学さん 2019年11月東京にて(撮影 合田創)

 

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(2020年9月14日)

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